瀦醤油有限会社代表 新古敏朗さんに聞く
歴史や伝統に胡座をかくことなく進化する世界一の醤油作り

一-2つの会社、丸新本家株式会社と湯浅醤油有限会社の成り立ちと違いは?
和歌山県湯浅町は醤油発祥の地で、最盛期の江戸時代には92件もの醤油屋があっ
たといわれています。しかし、大量生産や効率化などによって日本中で昔ながらの醤油屋が廃業し、湯浅においても同様で醤油屋は数件しか残っておりません。
私の苗字は「新古」といい、「新」をとって、祖先が「丸新本家」という名前で、約140年前に金山寺味噌作りを始めました。
その過程で醤油も作るようになりましたが、私どもも様々な理由によって醤油事
業を縮小させていました。「丸新本家」の5代目として、この現状を見て「このままでは日本発祥の湯浅醤油が、いや日本の味覚を形づくつてきた醤油がなくなってしまう。湯浅の伝統を絶やしたくない」と思うようになりました。

そして、「本物の醤油を作り、身近に感じていただくことが何よりも日本の醤油文化を伝えていく方法だ」と、再度醤油製造に注力するべく、2002年、丸新本家株式会社から醤油事業を切り離して、醤油の製造と販売を行う湯浅醤油
有限会社を設立しました。
実は、湯浅醤油有限会社を設立する7年前、丸新本家株式会社を設立しました。それまでの丸新本家は個人事業としての扱いでした。株式会社にするきつかけとなったのは、1995年、和歌山県西牟婁郡白浜町に西日本エリアでは最大級の総敷地面積15,000坪の巨大市場「とれとれ市場南紀白浜」がオープンすることになり、そこへ出店するためでした。

―― 白浜町というのは、関西で人気のリゾート観光地ですね。温泉やビーチがあり、ジャイアントパンダがいる「アドベンチャーワールド」もあります。株式会社化してまで出店を考えた理由は?


このままやったらあかんぞ、という意識がありました。その頃、高速道路が通るという話が出てきていました。湯浅町は、大阪や神戸といつた都市部と南紀白浜の間にあります。高速道路の開通により、将来的に観光客が湯浅町を素通りして、南紀白浜を目指すようになったらどうしようと思つていました。人の移動が変化することで千上がった地域を目の前で見てきたので、危機感を持っていました。そのため、南紀白浜にも拠点を作つておこうと考えたのです。株式会社化して、投資額は億単位。返済もせなあかんと必死でした。両親と私と、パート2人で店に立ちました。実際、高速道路が開通して、湯浅町の店舗の売上は7割減になりました。「とれとれ市場」内の店舗の売上が、湯浅町の本店の減った分を穴埋めしてくれ、湯浅町の店が存続できました。
出店を決めた当時の私はまだ25歳で、金銭面での苦労を知りませんでした。今思
えば、世の中のことを何にも知らない子どもでした。自社会計はどんぶり勘定の父任せで、母が日々の集計をしていました。少人数なのに何億も借金をしているという苦しいとき、税務署の調査が入りました。
その後、どんぶり会計をやめて、私が信頼する税理士の方にお願いするようにな
り、それから税務署が来たことは一回もありません。会計を気にしたら事業が前に進まないので、やりたい事業を税理士と銀行に相談して進めるようにしています。今は銀行から逆に「借りてくれ」という要望がきて、社会的地位が上がってきたように感じます。
――湯浅醤油有限会社を立ち上げたきっかけは?
「とれとれ市場」で対面販売をしていると、湯浅醤油の蔵見学や製造体験をしたいという声を耳にするようになりました。お客様ご自身の目で醤油ができていく工程を見てもらい、湯浅の醤油作りの文化までを知ってもらえるような蔵見学。これなら湯浅町に人を呼び戻せるかもと、縮小していた醤油事業をもう一度やってみようと思いました。父に相談したら、すぐ「登記してきたで」というので、その素早さには驚きました。
湯浅醤油有限会社を立ち上げた頃は、私の経営人生で一番お金がなかった時代で
す。300万円の資本を出すのに必死でした。まったくの一人で立ち上げた会社です。毎日、深夜まで醤油作りをしていました。生産だけでなく工場の改装から駐車場のコンクリート敷きまで自分でやりました。おかげで、今は電気工事、水道パイプの設置もでき、ユンボも乗れます。田舎のなんでもできるオッサンですね。その頃は30代前半で、まだまだ元気でした。
湯浅醤油有限会社の売上は、1期目は400万円でしたが、1億円にいくまで倍増で増えていきました。設立当初、銀行は父の信用で成り立っていましたが、着実
に結果を重ねていくことができました。ただ、父とはぶつかることも多かったで
すね。私は伝統的な製法を継承し、木樽を置きたいというような考えを持っていますが、父は反対しました。業界の人や技術指導員たちも「作るな」といいます。「作らんと買え」ということです。1リットルを100円ぐらいで仕入れられるのです。それを自前のブランドで1,000円で売ったら儲かるという話です。でも、絶対に自分で作ると言いました。直径2.3mの杉の大樽で、1年から2年の歳月をかけてじっくりと熟成させる伝統的な醤油作りを見せていきたいという私と父の間でケンカは絶えませんでした。しかし、最終的に手を動かすのは私なので、今の形になりましたね。

伝統製法にこだわった理由は2つあります。地域の人たちは、ちゃんと作つているのか、それとも買つているか知っています。いい噂は立たないというのが1つです。もう1つは、同業他社が作れない醤油を作れるからです。JAS規格の最上級に超特選という枠がありますが、その1.5倍ぐらいの品質のものを作つています。醤油の良し悪しは、アミノ酸の量で判断します。ただ、アミノ酸そのものは検出できないので、アミノ酸に含まれる全窒素の量を見ます。市場にあるメーカーの醤油はすべて章社で分析していますが、それに比べて当社のものが頭一つ飛び抜けている状態です。高くても売れるものを作つている自信があります。

一一醤油蔵を改修しましたが、「観光バスを受け入れる、大型化する、借金がかさむ」という旧来のビジネス破綻モデルにならなかったのは、なぜでしょうか。
2002年当時、醤油蔵の見学ツアーそのものが、日本でやっているところがまだ
ほとんどなかったので物珍しさもあったのでしょう。旅行会社の中で評判になりました。観光バスで団体のお客様が訪れるようになり、旅行会社から「店が小さくて、混雑するから外にもテントを出してスペースを作つてほしい」「トイレの数を増やしてほしい」と、様々な要求がきました。私たちは、当初は日本人の個人客に向けて醤油蔵を見学できるようにと改装をしたので、団体客がこんなにも押し寄せるとは思っていませんでした。少しずつ拡張していき、今では約800坪の土地に、一般の車の他に大型バス5台が停められる広い駐車場を完備しています。

醤油蔵見学は爆発的な人気で、年間10万人のお客様がいらっしゃるほどに成長し
ました。蔵見学ツアーでは、120年以上現役で使用している木桶や櫂入れ、搾りの様子を説明します。また、醤油の原料や歴史を感じる展示物も用意しています(日本語のみ)。醸造している醤油の試飲もできて(コロナウイルスの影響で一時お休み)、そのまま直売所で買うことができます。やはり、条件もよかったのでしょう。例えば、神戸や大阪から南紀白浜へは車で2時間半~3時間程度のドライブになります。南紀白浜への行き帰りの中間に湯浅町が位置するため、休憩ついでに高速道路を降りてくれるイメージです。ご時世が変化しても、インバウンド集客もあまり負担になりませんでした。なぜなら、私たちが無理して集客したわけではないからです。外国の方が読む旅行雑誌にうちの会社が紹介されているからか、関西国際空港からレンタカーで醤油ソフトクリームを食べにくる外国人が、年間1万人を超えました。これまで蔵見学など醤油事業の「体験」がなかつた、醤油発祥の地だった、ということが重なり、自然と人が集まるようになったので、運がよかったのだと思います。


一― ボルドーでワイン樽を使つた醤油作りに挑戦した理由は?
もともと醤油の輸出はしていました。ところが東日本大震災が起こり、放射能の問題からフランスの大手間屋が手を引いてしまい、フランスヘの窓口がなくなってしまいました。そんなとき、「フランスで作ったらええやん」と言われたことがきかっけになりました。パリとは違ってボルドーには醸造の文化があり、道具のうち半分は現地で揃うので、「いける」と直感しました。
まず樽の確保です。アメリカで醤油を作っている知人がおり、その人はバーボン
の樽を使っていたので、フランスであればワイン樽がいいと、メドックでワイン作りをしている内田修さんに相談してワイン樽を入手し、原料となる大豆と小麦はビオ認証の農家に直接交渉しました。ないのは麹菌で、日本から持つていつたのはそれだけです。昔、日本では杉の木箱で麹を作りました。フランスには木製のワインケースがあるので、それを改造しました。最終段階で混ぜる権棒がないと気がつき、廃材を拾ってきて、カッターナイフとドライバー、カナヅチで作りました。こうして知恵を絞つて、ぶっつけ本番で仕込みました。与えられた道具でしかやつたことがない人は、こんなことできないでしょうね。


反応は上々で、国内、フランス、ドイツ、オランダなどから問い合わせやメッセージが来ています。どうやら、フランス人はワイン樽で仕込んだ醤油のほうが好みのようです。今は、醤油醸造所設立を計画中です。ワイナリーの醤油版のような、醸造所併設の醤油が味わえるレストランを作りたいですね。
祖父からは「一番になれ」と言われて育ちました。ずっとその意味がわからなかったのですが、日本一の標高である富士山は知っていても二番目はみんな知らない、琵琶湖は知っていても次は知らない、そんなことを考えるうちに、二番目ではダメだと思いました。湯浅という醤油発祥の地であるブランドや伝統に胡座をかいていたら先が見えなくなるのです。伝統があっても、減んでいるものがたくさんあるでしょう。醤油だってまだ完成していないのです。いくらでも進化し続け、美味しくなっていくのです。最近発売したのが、「力カオ醤」という力カオに麹をつけて発酵させたものです。チョコレートの香りと昧、それでいて醤油の
味もしっかりします。ぜひお試しあれ!

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