朝日新聞 百年企業@近畿で
『醤油の聖地作品追求』と紹介されました!
(記事内容)
100円ショップがはやり、牛丼も家電も激安を競う。そんな「デフレ」の世の中で、1本3千円のしょうゆが売れている。造っているのは、しょうゆ発祥の地とされる湯浅町で創業130年の「丸新本家」。「製品」じゃなく「作品」を目指したら、この値段になった。(山野拓郎)
<「湯浅」の価値顧客に学ぶ>
「外国の人が来はったんですけど、何ゆうてるか分からへんのです」
2007年初夏の日曜日。会社敷地内の自宅で昼食中だった新古敏朗專務(41)は店員に呼ばれた。入り口に見に行くと、長身でジーンズ姿の中年男性は英語で「工場を見たい」と言った。
男性はフランス料理のシェフ。「今の瓶は小さい。もっと大きいのが欲しい」。それを言うためにはるばるベルギーからやって来たのだ。その製品というのが、720ミリリットル瓶入りで小売価格3干円の「湯浅醤油生一本黒豆」だった。
当時、海外に自社製品の愛用者がいることは新古さんにとって全くの想定外だったが、今やベルギーの一流シェフの間で「YUASA」のブランド名は広く知られている。
日本のしょうゆは湯浅で生まれた、といわれる。
鎌倉時代、湯浅の人たちは中国から帰国した僧から「金山寺みそ」の製法を伝えられ、造り始めた。みそを造ると、たるの底に汁がたまる。いつしかこの汁を煮炊きの調味料として使うようになったのが、しょうゆの起こりだとされる。
丸新本家は1881年、その湯浅で新古さんの曽祖母が手製の金山寺みそを売り出したのが始まりだ。しょうゆも造っていたが、業界で安価な大量生産品が台頭したこどもあって1965年」ごろには撤退してしまった。
5代目として20歳で入社した新古さんだったが、同じみそを決まった業者に卸すだけの毎日。「こんなことしてて何になる」と疑問を感じていた4年目に、湯浅の手前で止まっていた有料道路が南へ延びる。並行する既存の国道で製品を売ってくれていた土産物店が交通量の激減で閉店し、丸新本家の売り上げは3割程度に落ちた。
難局を打開するため、新古さんは観光地の自浜町に直営店を出す。そこで初めて客の声をじかに聞いた。「湯浅なのにしょうゆ造ってへんのかいな」。湯浅といえばしょうゆ。その知名度に驚いた。
新古さんは、長いあいだ途絶えていたしょうゆ造りを2002年に復活させる。だが、後発の会社がどうやって他杜と差別化するか。
「工業製品じゃなく、芸術作品と呼べるような世界一のしょうゆを造ろう」
発祥の地をアピールするため、ずばり「湯浅醤油」をブランド名にした。選んだ材料は、30キロ入りの1袋が7万円する最高級の丹波の黒大豆。塩、水、製法にもこだわった。値段は1本3千円。「これはええもんができた」。03年に店に並べた。
だが、1300万円かけて造ったのに売り上げは400万円。「もう造らんといてください」と社員に言われた。
それでも、わずかなファンのロコミからじわりと評判が広がった。発売から2年後、東京の料理人から聞きつけたテレビ番組制作会社が取材に訪れ、バラエティー番組で紹介された。すると、6千本あった在庫があっという間になくなった。
今では「生一本」をはじめとするしょうゆ部門は年間1億4千万円を売り上げ、会社全体の35%を占める。
新古さんは「しょうゆの伝道師」を自称し、地元の小学校で子どもたちにしょうゆ造りを教えている。また年に10日は海外に行ってしょうゆを売り込む。最近、ドイツの知り合いの業者に勧められ、ネット上の交流サイト「フェイスブック」も始めた。「しょうゆの聖地で造らせてもらっているんだから、できることは何でもやりますよ」
丸新本家(湯浅町湯浅)資本金1千万円。従業員約30人、年商約4億円。
金山寺みそ、しょうゆ、ポン酢、梅干しなどを製造・販売。本社敷地内には直売店のほか、事前予約すれば見学できるしょうゆ蔵がある。田辺市と白浜町にも直売店がある。
<これまでの歩み>
1881 新古スミが金山寺みその店を創業。のちにしょうゆ製造も開始、「新古商店」を名乗る
1965ごろ しょうゆ造りを休止、金山寺みそに専念する
1982 工場を現在地に移転
1985 店名を「新古商店」から「丸新本家」に変更
2002 しょうゆ造りを再開
2003 3千円のしょうゆ「生一本」を発売
2005 「生一本」がテレビ番組で取り上げられる
2006 カレー専用しょうゆ発売